昭和47年12月28日 夜の御理解

                              中村良一

 今、末永先生がお話をするように、私の全てという様な事を申しますけれども。私にとっては、信心は、私の全てですし、命ほどというけれども。私にとっては、もう命以上なんです。その信心を、本気で分かろう、本気で頂こうとこう、前向きの姿勢で進んでおる修行生、信者さん方の、それに触れるという事は、もう、私の、その、生き甲斐は、もうここにあるのだという様な気が致します。こんなに嬉しい事はないですね。ですが、お互いの信心の姿勢というものが、ばってん、そうばっかりにはいかんといった様なものも、まぁあります訳ですけれども。今日あの、竹葉会で、昨日、久留米での、佐田さんところの教励会の様子を、いろいろ聞かせて頂いた中に、あの、正樹さんが、もう、今年は、親先生が、和賀心時代を作ると仰せられておるのだから。せめて、久留米の者なら、五つだけは、和賀心で受けなということを、心にかけておるという意味の事を話された。素晴らしいと思ったんですよ。もう私は、今年は先生が、和賀心で受けて行く時代を作ると仰るのじゃから。もう、和賀心になる事に、ただ、焦点をおいて努めておりますというのなら、やはり、嘘になります。けれども、半分だけはと、これから下に落ちてはならんとこう言うことを言ったという形で、努めておる、その信心の事を聞いて、嬉しかったんですけれどね。そこで、私はその、和賀心と言うと、解釈が、非常に難しいし。簡単に、和らぎ喜ぶ心と言うけれども。そうじゃない場合がありますけれども。今日は、私は、和賀心で受けるということの、一つ手前のところにですね。あの信心心で受けるという事があると思います。ですから、これなら、私は、全部、受けられりゃせんかと思うですね。和賀心で受けられなくても、信心心で受けるということですね。そういう風に、やはり、焦点を、いつも、そこに置いて、その事に取り組んでおく事が、信心だと思うですね。